雑記1147

yoshinashi stuffs

樹海

樹海に1泊してきました。

本当は2泊の予定でした。

途中で「もういいや」と糸が切れるように飽きて、行く予定だった場所にも行かず渋谷まで帰ってきてしまいました。

 

古書屋でランダムに選んだお供は5冊

 

澁澤龍彦  『黒魔術の手帖』

寺山修二  『寺山修二 ちくま日本文学全集

笹間良彦  『図説 日本拷問刑罰史』

辻村深月  『ツナグ』

瀬尾まいこ 『幸福な食卓

 

 

黒魔術の手帳は魔法研究期間の参考書になるかな。

寺山さん全集は勿体ないのでちょっとずつ読もうと留めている。

拷問本は期待外れ、図説が貧相なのが残念。参考書としてはいいのだろうけれど、この分野を喜々とせずに勉学に勤しむマイノリティにはおすすめしてあげよう。

ツナグはよかった。映画見ようか迷います。

食卓は コンセプトは悪くないけれど、情景描写の点で『天国はまだ遠く』に劣るかなあと。

 

 

慣れ、の恐ろしさを知った小旅行でした。

というのも、オフラインにいることが居心地が悪かったからです。

 

反面、心地よいこともありますが、心が落ち着かないことの方が大きいのでした。

たいそうな田舎で育ってきた自分にはほかの人よりも大きなこの類の衝撃を受けたようです。

 

頭を上手に使いこなしたいという欲があります。

光と影のようなもので、不自由な枠の中で戦っているからこそ自由というものが光り輝くのだ。重力で地面に押し付けられていたからこそ、空を飛ぶことが人類の長年の夢だったように。

 

現代の教育はまったく反対のことをやっている。子供に自由の尊さや、喜びを教えたいのなら、きちんとした枠を与えてやるべきなのだ。

 

ぶ厚い壁が目の前にあれば、子供は放っておいても、なんとかしてそこから自由になろうともがく。壁をぶち壊そうとするヤツもいれば、壁の下に穴を彫ろうとするヤツもいるだろう。壁の内側に誰も気づかなかった自由を見つける子供もいるだろう。

 

人間の知恵や想像力は、壁や障害があってこそ豊かに発揮される。知恵や想像力によって壁を乗り越えるところに、自由の喜びがある。なんでも自由にやっていいよといおう世界では知恵も想像力も働かせる必要がない。寝転がって、食いたいものを食って、テレビでもみていましょう、となるのがオチだ。

 

北野武 『全思考』幻冬舎文化 2009)

 

自由な環境は大切だけど、自由すぎてもいけない。

不条理な抑圧環境ですらバネに変えて何かを模索することのできる人間はなかなかいないのです。しかしだからといって、圧をかけて潰れる事を恐れてばかりいては進歩がなくなってしまう気がしてならないのです。

 

劇薬を注いでやる、と、Sっ気に溢れた親爺たちが壁や障害となっていた時代は薄れつつあります。自分の家庭はその気がありましたがそんな環境に非常に感謝しています。自分で考え、工夫せざるを得ない環境というのが一番の養分になっていたなあ。

Louvier morastery ルーヴィエ修道院

1642年に一人の神父が死に、修道女が激しいヒステリーに。彼女たちは、プティファー・ダゴン・グロンガードと呼ばれる悪魔に苦しめられていると訴えた。

 

その原因は同僚のマドレーヌ・バヴァンにあると言った。

 

教会はマドレーヌを”妖術使い”の容疑者としてマドレーヌを告発。告発内容は、悪魔との夜宴に参加・悪魔との取引に応じた契約書への署名、悪魔との性的交渉。マドレーヌは拷問にかけられ”自白”をした。

 

マドレーヌが修道院に入ったのは1626年。18の時に神父と関係を持ち、罪を悔いたのか噂を恐れたのか修道院へ入った。

 

そのフランチェスコ派修道院の草分けの司祭はピエール・ダヴィット。教義はアダム派(裸体主義)やキエティスト(静寂主義者)。修道院の生活は清貧そのものであったが、儀式はすべて裸体。信心深い修道女たちも裸体で踊らされたり、庭園を散歩させられたりした。

肉体関係は強要されることは無かったが、後任の司祭に代わってからエロティックな行為がエスカレートしていった。 そして復活祭の”告解”のおり、マドレーヌはピカールに関係を持たされた。以後、”告解”の度に。そして妊娠。

 

ピカールはほかの多くの修道女と関係を結び、院内は色欲地獄のありさまに。彼女たちを性の地獄へ追い込んだ媚薬は経血に浸したパンでつくられた。

 

悪魔の夜宴に参加して、人間のあぶり肉を食べ、性の饗宴を催した。毎晩”悪魔”がやってきて修道女は狂喜の淵に引きずり込まれる。

 

 

ピカールが死ぬまで15年間続き、マドレーヌは40歳で亡くなった。

性と拷問の地獄にあった一生であった。

 

 

コラン・ド・プランシー著 床鍋剛彦訳 『地獄の辞典』 1990  講談社

 

 

かわいそうなマドレーヌ。

神父と関係を持ってしまい、『浄化』を望んだはずなのに入ったところがアダム派というのは皮肉な話。

 

学んだこと

・宗教倫理は本能に打ち勝てない

・自分が所属するであろう集団は念入りに下調べすること

・女=崇高・使役 という相反する価値観が根付いていたこと

 

 

修道院で悪魔と性の饗宴なんてシュルレアリスム的で最高に素敵ではないでしょうか。

デペイズマン。

 

 

大企業

大企業はなんやかんやいっても上の年寄りの力が強くて、固い考えが深く根付いているものなのでしょうか。

「挑戦心ある人、創造的な人材」を募集要項に掲げているわりにはそういう人材が選考で落ちていく。 所詮使い勝手のよい駒を探しているのではないかと思ってしまいます。
社長というものはそもそも「周りから無理と言われるoutstandingな人」であったと思います。それでも努力を続けたから社長として事業を大きくしている人がいるわけです。

ところがその会社の採用というのはoutstandingな人は敬遠されるみたいです。
なんだかおかしな話でもないでしょうか。一度"組織"が出来上がるとその繁栄に最も貢献できる人材を補完していく「守りベース」の経営になります。上場していると株主に配当が行くわけですけどそれを社員の給料や研究開発費に注ぎ込んだほうが・・・?

うだうだ。

We first make our habits, and then our habits make us.

イギリスの詩人の言葉。

 

”はじめは、私たちが習慣を作り、それから習慣が私たちを作る。”

 

潜在的にその意識はあります。  

しかし、思考と実行の間にものすごく大きな壁が存在することは確か。

 

こう、ブログという形でアウトプットを続けているのはいいことと思う一方で、

精度や頻度に不満がないわけではない。

 

でも、「書くことを続けている」事実はあるのだからペシミスティックにはならない。

 

気の利いた事をアウトプットできるためにはなんとなくではなくて、

戦闘的にインプットをしなくてはいけない気がします〇

 

 

 

 

就活も佳境。ふう。