雑記1147

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生産性

生産性

あげたい。

あげていかねば、という強迫観念ではなく自分の愉しみのためにあげたいです。

 

9月を振り返ると、充実していたけど先につながることがあまり無い(と、思ってしまう)月だったのかなと。

バイトで稼いで、たくさん人と会ってサーカス見て(これは大きい)IFF行って、リンカンやdarklabelstoreとつながって、と動けた。外的にはだいぶアクティブだったのかなあ、と。

 

ただ、

内的には怠惰な生活をしていたかなあ、と。外に刺激を求めたがしかし、自分のなかでなにかを発酵させることを怠った気がします。作品(っちゃ作品)を作ったりはするが、何十時間もの熟考の上のアウトプットではないし、ゆっくり考える時間を作らなかったなあと反省。

 

ブログのように文にしたり戦闘的に本を読んだり、インターネットの世界で活動したり、「緊急ではない×すべきこと」に時間を使うことをしたいなあ。コビーさん、あなたは聡明な人です。

 

 

さて、一過性のものかどうかわかりませんが、自分の興味がはっきりしてきたきがします。

 

というわけで、アウトプット。

 

1 YohjiYamamotoの服。新旧問わず、しなやかでハリがあり動いたときに一瞬遅れてまとわりつく生地感のもの、具体的には薄手のギャバジンかもしれない。多少の変形は◎、ただあまりにもテロテロなカットソー地などは安く見えるので好きではありません。あくまでもエレガントなものがいいのです。他のブランドではなかなか見つけられないですね。

オールドヨウジといえばのまーさんはあまりお好きではなさそうですが、朝倉さんのペイントシリーズは好きです。ただ、まっ赤とかではなく臓物模したものや黒ベースグレーと緑の抽象模様がすきです。これは、そのもの抽象絵画が好きであるからそのまますんなり受け入れることができたのでしょう。

 

2 シュルレアリスム

問答無用で好きなジャンルです。わかりやすいけどわからない。そんなデペイズマンが起こる、現実ベースでありえない光景というのが刺激的ではなかろうかなんて。

 

3 緊縛・耽美・グロテスク系 

社会的に表立って出てこない文化という ジャンル自体にも魅力を感じますし。そもそもの発想や人間の突飛な想像力に触れられる体験をできる点に脳がよだれを垂らします。物そのものに芸術性を感じると同時に、その源流を辿った先にあるものにも興味があるので、完全に耽美派ともちがうのでしょうね。うん。とりあえず本を漁り展示に行きさらに理解を深めようと画策です。

 

こう見ると、非日常ベースのものばかりが並ぶので快楽先行型人間だということがわかりますね。冷たい水を飲むことができるという幸せももちろん感じますが、求めているものは180°逆向きの幸せもとい快楽が燃料なのだなあ。

 

ここ一年で自分の傾倒物が判明してきたので掘り下げる作業へと移行します。

 

サザエさんの性生活

マードックは「家族は短命であるのに家>は永続を願望され、この両者は根本的に相容れないものである。」と、書いていますが、その両者の歪みがもっとも具体的な形で表現されているのが、他所からこの家に入り込んできたムスコ<つまり、もっとも純粋な意味で<家>との繋がりをもたぬ家族>のマスオです。マスオが、サザエと結婚しながらついにその性生活を十年間もの間、暗示だにされないというところに。この漫画の呪術的恐ろしさ感じられます。今日では、性行為を法制化するための結婚という形式そのものが問い直され、「われわれが結婚したいということは、抱き合ってセックスしたいということだ、というのは誰でも知っている」(W・ライヒ 『おしつけがましい結婚と長続きする性関係』)にもかかわらず、ここではマスオの性欲は「家の」力によっ去勢されかけているからです。もちろん、「サザエさん」には描かれざる裏の真実があるのかもしれない。たとえばマスオはかなり度の深い包茎であるとか、この数年来、インポテンツに悩んでいるとか―。

 

寺山修司 『ちくま日本文学全集』1991 筑摩書房

 

この文章を読むだけでも寺山さんの語彙力を計り知ることができます。語彙力が豊富な人の文章は呼んでいてとても楽しい。というのも、言葉によって、自分の脳の使っていなかった部分を刺激してくれるから。想像力を掻き立てる点では俄然映像よりも刺激が強いものであると思うのです。

もちろん映像のほうが優れている点もあります。ダイナミックな描写や色彩など、表現者が伝えたいものを(ほぼ)ダイレクトに具現化できる点です。

しかし、ここでは視聴者は餌を流し込まれるダチョウに成り下がるのです。与えられら物をそのまま飲み込み肝臓を肥やすだけの危険な状態になるのです。噛む、という解釈をせず、咀嚼を怠ります。そうすると噛むこともとい考えることをやめ思考停止に陥る危険性がある気がしてならないのです。 

文学は映像より高尚なものと言っているのではありません。むしろ、それぞれは比較することができない領域に位置しています。

 

文学的にサザエさんの性生活を考察する試みはとても面白いものでした。

娯楽が絡んだ性の話となると、古今東西権力関係が存在し、ライトな話であれば女の性が優位にディープになれば男性優位になるのは一種の法則なのか。

樹海

樹海に1泊してきました。

本当は2泊の予定でした。

途中で「もういいや」と糸が切れるように飽きて、行く予定だった場所にも行かず渋谷まで帰ってきてしまいました。

 

古書屋でランダムに選んだお供は5冊

 

澁澤龍彦  『黒魔術の手帖』

寺山修二  『寺山修二 ちくま日本文学全集

笹間良彦  『図説 日本拷問刑罰史』

辻村深月  『ツナグ』

瀬尾まいこ 『幸福な食卓

 

 

黒魔術の手帳は魔法研究期間の参考書になるかな。

寺山さん全集は勿体ないのでちょっとずつ読もうと留めている。

拷問本は期待外れ、図説が貧相なのが残念。参考書としてはいいのだろうけれど、この分野を喜々とせずに勉学に勤しむマイノリティにはおすすめしてあげよう。

ツナグはよかった。映画見ようか迷います。

食卓は コンセプトは悪くないけれど、情景描写の点で『天国はまだ遠く』に劣るかなあと。

 

 

慣れ、の恐ろしさを知った小旅行でした。

というのも、オフラインにいることが居心地が悪かったからです。

 

反面、心地よいこともありますが、心が落ち着かないことの方が大きいのでした。

たいそうな田舎で育ってきた自分にはほかの人よりも大きなこの類の衝撃を受けたようです。

 

頭を上手に使いこなしたいという欲があります。

光と影のようなもので、不自由な枠の中で戦っているからこそ自由というものが光り輝くのだ。重力で地面に押し付けられていたからこそ、空を飛ぶことが人類の長年の夢だったように。

 

現代の教育はまったく反対のことをやっている。子供に自由の尊さや、喜びを教えたいのなら、きちんとした枠を与えてやるべきなのだ。

 

ぶ厚い壁が目の前にあれば、子供は放っておいても、なんとかしてそこから自由になろうともがく。壁をぶち壊そうとするヤツもいれば、壁の下に穴を彫ろうとするヤツもいるだろう。壁の内側に誰も気づかなかった自由を見つける子供もいるだろう。

 

人間の知恵や想像力は、壁や障害があってこそ豊かに発揮される。知恵や想像力によって壁を乗り越えるところに、自由の喜びがある。なんでも自由にやっていいよといおう世界では知恵も想像力も働かせる必要がない。寝転がって、食いたいものを食って、テレビでもみていましょう、となるのがオチだ。

 

北野武 『全思考』幻冬舎文化 2009)

 

自由な環境は大切だけど、自由すぎてもいけない。

不条理な抑圧環境ですらバネに変えて何かを模索することのできる人間はなかなかいないのです。しかしだからといって、圧をかけて潰れる事を恐れてばかりいては進歩がなくなってしまう気がしてならないのです。

 

劇薬を注いでやる、と、Sっ気に溢れた親爺たちが壁や障害となっていた時代は薄れつつあります。自分の家庭はその気がありましたがそんな環境に非常に感謝しています。自分で考え、工夫せざるを得ない環境というのが一番の養分になっていたなあ。

Louvier morastery ルーヴィエ修道院

1642年に一人の神父が死に、修道女が激しいヒステリーに。彼女たちは、プティファー・ダゴン・グロンガードと呼ばれる悪魔に苦しめられていると訴えた。

 

その原因は同僚のマドレーヌ・バヴァンにあると言った。

 

教会はマドレーヌを”妖術使い”の容疑者としてマドレーヌを告発。告発内容は、悪魔との夜宴に参加・悪魔との取引に応じた契約書への署名、悪魔との性的交渉。マドレーヌは拷問にかけられ”自白”をした。

 

マドレーヌが修道院に入ったのは1626年。18の時に神父と関係を持ち、罪を悔いたのか噂を恐れたのか修道院へ入った。

 

そのフランチェスコ派修道院の草分けの司祭はピエール・ダヴィット。教義はアダム派(裸体主義)やキエティスト(静寂主義者)。修道院の生活は清貧そのものであったが、儀式はすべて裸体。信心深い修道女たちも裸体で踊らされたり、庭園を散歩させられたりした。

肉体関係は強要されることは無かったが、後任の司祭に代わってからエロティックな行為がエスカレートしていった。 そして復活祭の”告解”のおり、マドレーヌはピカールに関係を持たされた。以後、”告解”の度に。そして妊娠。

 

ピカールはほかの多くの修道女と関係を結び、院内は色欲地獄のありさまに。彼女たちを性の地獄へ追い込んだ媚薬は経血に浸したパンでつくられた。

 

悪魔の夜宴に参加して、人間のあぶり肉を食べ、性の饗宴を催した。毎晩”悪魔”がやってきて修道女は狂喜の淵に引きずり込まれる。

 

 

ピカールが死ぬまで15年間続き、マドレーヌは40歳で亡くなった。

性と拷問の地獄にあった一生であった。

 

 

コラン・ド・プランシー著 床鍋剛彦訳 『地獄の辞典』 1990  講談社

 

 

かわいそうなマドレーヌ。

神父と関係を持ってしまい、『浄化』を望んだはずなのに入ったところがアダム派というのは皮肉な話。

 

学んだこと

・宗教倫理は本能に打ち勝てない

・自分が所属するであろう集団は念入りに下調べすること

・女=崇高・使役 という相反する価値観が根付いていたこと

 

 

修道院で悪魔と性の饗宴なんてシュルレアリスム的で最高に素敵ではないでしょうか。

デペイズマン。