雑記1147

yoshinashi stuffs

サザエさんの性生活

マードックは「家族は短命であるのに家>は永続を願望され、この両者は根本的に相容れないものである。」と、書いていますが、その両者の歪みがもっとも具体的な形で表現されているのが、他所からこの家に入り込んできたムスコ<つまり、もっとも純粋な意味で<家>との繋がりをもたぬ家族>のマスオです。マスオが、サザエと結婚しながらついにその性生活を十年間もの間、暗示だにされないというところに。この漫画の呪術的恐ろしさ感じられます。今日では、性行為を法制化するための結婚という形式そのものが問い直され、「われわれが結婚したいということは、抱き合ってセックスしたいということだ、というのは誰でも知っている」(W・ライヒ 『おしつけがましい結婚と長続きする性関係』)にもかかわらず、ここではマスオの性欲は「家の」力によっ去勢されかけているからです。もちろん、「サザエさん」には描かれざる裏の真実があるのかもしれない。たとえばマスオはかなり度の深い包茎であるとか、この数年来、インポテンツに悩んでいるとか―。

 

寺山修司 『ちくま日本文学全集』1991 筑摩書房

 

この文章を読むだけでも寺山さんの語彙力を計り知ることができます。語彙力が豊富な人の文章は呼んでいてとても楽しい。というのも、言葉によって、自分の脳の使っていなかった部分を刺激してくれるから。想像力を掻き立てる点では俄然映像よりも刺激が強いものであると思うのです。

もちろん映像のほうが優れている点もあります。ダイナミックな描写や色彩など、表現者が伝えたいものを(ほぼ)ダイレクトに具現化できる点です。

しかし、ここでは視聴者は餌を流し込まれるダチョウに成り下がるのです。与えられら物をそのまま飲み込み肝臓を肥やすだけの危険な状態になるのです。噛む、という解釈をせず、咀嚼を怠ります。そうすると噛むこともとい考えることをやめ思考停止に陥る危険性がある気がしてならないのです。 

文学は映像より高尚なものと言っているのではありません。むしろ、それぞれは比較することができない領域に位置しています。

 

文学的にサザエさんの性生活を考察する試みはとても面白いものでした。

娯楽が絡んだ性の話となると、古今東西権力関係が存在し、ライトな話であれば女の性が優位にディープになれば男性優位になるのは一種の法則なのか。