雑記1147

yoshinashi stuffs

Acrotomophilia

Acrotomophilia(アクロトモフォビア)についての記事にふれました。

※Acrotomophilia=手足切断者愛好

手足が無い人に性的に惹かれるのみでなく、自分が無くなった状態を妄想して、恋人に看病?してもらうことに興奮するという状態もあるそうです。 なので手足を切ってくれという依頼がとても多いとのことで、困っているお医者さんがいるみたいで。 恋人を切ってくれと頼むのより倫理的な気もしますがどうなのでしょう。
話を戻して手足が無い人に魅力を感じる人は性交することが第一の目的ではなく、そういう人と恋人として付き合い、愛することが至上命題みたいです。そう考えると歪んだ愛などではなく、むしろ真摯で一途な愛では。ただ社会的にマイノリティであるから人々の好奇の目に晒されるだけであって、本質的には例えばパクチーが好きか嫌いかとおなじですよね。好みの問題ですよね。

ただ、ただ手足のない異性(多くの場合は女性)に対して、惹かれる性格にもいろいろとあるのは興味深かったです。どうしても右足だけ無い状態がいい、などこだわりがあることもあるようで、中国のテンソクとはまた違う種類のものらしいです。

ためになるなあ。





『ロシア異界幻想』

真に幻想的なるものは、いわば、"はだか"の姿では決して現れないものであるをその顕現は人生の諸事件の摩訶不思議なる意味を無理矢理信ぜざるを得なくするようなものでは決してなく、むしろそれを指し示し、"暗示する"べきものである。真に幻想的なるものには、諸現象の、通常的・日常的関係からなし得る単純な説明の外的・形式的可能性が常に残されているものではあるが、そのさい、その説明は内的な信憑性を決定的に欠くのである。

『ロシア異界幻想』栗原成郎
2002/2/20 岩波新書


なるほど。幻想的とは、"ケハイ"が感じられる・実際に目に見えるものから感じ取れる"残り香"のようなものであり、だからこそ醸し出るミステリアスな含みがより幻想的イメージを引き立てると。
あまり見たことの無い切り口から面白い文章がたくさん書かれていました。



好きなのは無敵戦士アニカが
「死」に殺され、歌われる歌。

    主なる神はアニカの霊をとるために
    二人の天使   二人の大天使を遣わされた
    天使らはアニカの霊を引き抜いた
    あばらぼねを通して
    丁重にでもなくねんごろにでもなく優しくでもなく
    アニカの霊を槍の穂先に刺し
    アニカの霊を高々とかざすや
    アニカの霊を深々と闇の中に投げおとした
    永劫の苦しみの中に  燃えさかる業火の中に          

「死」の前における人間の無力の象徴、神を畏れぬ罪人の代表として描かれているのでしょうか。死に、神に救済されるない道もあるのだな。
「死」を神の創造物とするならば、「死」に立ち向かうことは神に立ち向かうことも同義、つまり、神に逆らった罪人ということになるのでしょう。こういう話を聞かされながら育つと、そりゃ神は絶対という価値観が刷り込まれますね。

『O嬢の物語』『Historie d' O』


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やっと読了。少し読み辛いながらもごりごりすすんでいきました。

ポーリーヌ・レアージュ(Pauline Reage)という匿名女性作家が書いた物語。

キーワードは 所有・譲渡・服従・奴隷・拷問・苦痛(肉体的 精神的)・快楽・マゾヒズム
ではないでしょうか。
お話しの流れは、恋人に売られた女が調教されることにより 高度な精神を得て開放されてゆくと言えばキレイかもしれません。

「一人の女がすすんで自由を放棄し、奴隷状態を受け入れ、男たちに強いられた服従と涙と拷問とprostitutionのさなかで、訓練を積み、ある晴れやかな魂の状態に達する物語」
との説明書き。

予想に反して?官能描写は驚くほど少ないところが文学的価値(社会通念的な)を強調してます。作者の意図はそこにはなかったのでしょう。これほどまでに肉体が卑しめられ、蹂躙されているにも関わらず、エロチックなシーン自体はとてもさらっとしています。その代わり、拷問描写はとても精密なのは"痛み"の この物語で持つ意味が大きいからではないかと。

最後、Oは人ではなかったのでしょう。腎に烙印を押され、鉄輪で陰部を封鎖され、全身を脱毛されたOは裸でフクロウの仮面を被り、舞踏会へ鎖で引かれてゆきます。好奇の目にさらされる彼女は禍々しいオブジェとその価値は変わらない状態でした。

いろいろとデペイズマンが起こっている状態からシュルレアリスム的な臭いを感じて好きでしたとても。

主な調教者であったステファン卿がOに恋してしまったのもかわいい話だと思いました。情が入るとはこのことかと。ただお構いなしに鞭は打つのですけれど...
歪んだ愛にも見えますが真摯に愛していたことを考えるとむしろ一途だったのでは?(他の女との性交は、Oを愛していることと全く関係ない)



削除された最後の章では、ステファン卿に見放されたOはそんな自分を見て自ら命を絶つみたいです。なんて幸せな終わりだろう。死って最高レベルの開放ですし、Oの場合は殊更たくさんの鎖(物理的にも精神的にも)に縛られていたのでさぞかし幸せだっただろうな...

ただ、どうやって死んだのかが気になります。薬も頸動脈切断も飛び降りも彼女らしくない。精神を上り詰めた彼女は、外的な要員を受けることが似合わないと思ってしまいました。毒死は人間らしすぎます。血を吹いているのも同様。飛び降りてぐちゃぐちゃになるのも(肉体からの解脱を強調する意を汲み取っても)美しく無いのでダメです。

自分のスイッチをパチンとするだけ、はい終了。くらいが似合うのではないでしょうか。


非合理的な欲望を体現していた、変わった物語でした。

FANCL

インターン(3日間)に参加させて頂きました。

こちらは純粋にワークに取り組むだけですが、ワーク作成・当日運営・社員派遣交渉などとてもいろいろと準備してくださったのだと感謝しつつ行っていました。

職場見学とのことでオフィスをぐるりとしました。蛍光灯の下、スーツ姿でパソコンに向かう大勢の社員の方々を見て、「これは違うな」とふっと冷めてしまいました。自分がそこで働いているイメージが全くできなかったのです。いろいろな企業を回りましたがこれほど"誠実"な会社はないと見えており、信頼はしていただけに残念でなりません。
そうなると会社が悪いのではなく、自分が悪い(もしくは合わない)となりませんかね。

既に押されてあった社会不適合者の烙印をしっかり見てしまった感覚でした。

ワークに関しては、経験があったので他の人よりも道筋が見えていたのでやりやすかったぐらいの感覚です。失うものはないので一度も遠慮せず自由にやらせていただきました。やらざるを得ない状況(に見えた)とはいえ、人に指示を出す時は錆びた刃物で胸をガリガリされているような気分で好きではない... 
しかし同時に、罪悪感に苛まれながらも、自分だけではやりきれないので仕事を振って効率的に目標達成を目指すという作業は楽しくもありました(どっちだ)。
理由は、新しい体験だったから、と、精神的にMであるから、の、2つなのではないかと

しっかりした二人の女性と議論をやりきったことは楽しかったし収穫。インターンの生長の幅は自分以上だと羨ましがったり。


仕事を振る人、振られる人っていますが、社会通念的に仕事を振る人ほど高評価・高収入・偉い、というイメージがあります。これに疑問を感じました。
振る人はそれがより得意だからやっているだけで、振られる人もそれがより得意だからやっている(または振るのが得意でも他人から認知されていない)のではないでしょうか。
そうすれば適材適所ということで格差はない気もしてきます。振る者・振られる者、これらは相関関係で価値を生み出すのであると考えてもやはり格差が出るのは道理に反したこととも考えられます。
頭を使う人が偉いのでしょうか。手を使う人が偉いのでしょうか。 後者が多いこの世界では相対的に前者の価値が、社会というフィルターを通してみると、高く見えるのは仕方ないこととして飲み込むことはできますけど...


もやもや

Orfeo


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こんなものを買いました。
代官山の「Orfeo」です。直感で素敵だと思ったのですが、さらに店員さんが昔、ヨウジを着ていたようで今の自分に見繕ってくれました。春になったら着たい。春くらい柄物入れないと万年カラスになってしまうし、安全圏から這い出るためにも新しいものに触れ続けようと試みています。

どこまで安全に愉しみ、どこからチャレンジするかの線引きはとても難しいと実感しています。ヨウジを着続ければ安全で愉しいのですが、アンやリックオウエンス、ドリスは少し挑戦、マルジェラやギャルソンになるとスタイルが変わる大きな挑戦。そしてシュプリームやエイプなどはそもそも挑戦する価値が見いだせないジャンルになってきます。どこまでやるのか、直感+αのαも大切に買い物を楽しめるといいと思ったり。

今回連れて帰ってきた服はラルフローレンなのですけど昔のラルフって今より素敵だなと感じることが多い気がします。いろいろ考えされられました。
Orfeoはいい古着屋ですがちょっと高い...
まぁほんとに好きなものだったら誘拐します。

ブランド

態度の悪い、YSLのバッグを持った女を見て、これは現代ならではだなと思いました。

そもそもブランド物(ここではハイブランド)というものは、優れた価値を提供することで多数の賛意を得、ブランディングによりハイステータスを構築するに至った商品達です。
昔はブランド物などは特権階級や貴族のような人々、社会的に高貴な者達が手にしていました。そのような人々は振る舞いや生活も豊かな余裕のあるものであり、そんな優雅な絵の中に潜んでいるブランド物は、庶民の憧れの的になっていたことでしょう。自分とは社会的にステータスが違う、という認識によって生まれるブランド物への羨望はそのイメージを神格化し、ブランドが持つイメージは高雅なものとして認識されました。

現在、バカでもブランド物を買えます。
ブランド物を持つことが 豊かな人間の証ではなくなった時代です。むしろこれ見よがしにブランド物を見せつけるバカが多い気がしてなりません。

大衆に門戸が開いているという点でブランド価値は、昔のそれと比べると落ちているのではないでしょうか。🙍

高橋さん

インターンで会った高橋さんとお昼を共にしました。見た瞬間から何か違うものを感じた彼女はやっぱり不思議で形容しがたい。プラスのオーラを纏った天真爛漫な才女とでも例えることすら恐ろしく感じます。

 

引いてあった食べ残しのお皿から卵焼きを取ろうとしたりお店を出た瞬間にお茶を買ったりと自由な人でした。愉しかった。