エルフェンリ-ト
はい。やってしまいました。
YouTubeは本当に優秀すぎて辛いです。
『エルフェンリ-ト』を最初から最後までイッキ見しました。一話目からガンガンスプラッターで切断祭りでした。『Happy tree friends』の人間ver.でしたね。切断面や膨張~破裂まで丁寧に書かれていました。裸の絵が多いことからも大人向けのアニメかと思います。
キレイな女の人とグロ描写ってとても相性がいいんですよね。美しい外見と生々しい内部のコントラスト・本来見えてはいけない部分の露出など「振れている」表現だからですかね。今まで見た中で物理的にも精神的にも割とエグかったです。「使用価値」を認めてもらうことが生きがい、といったものはフィクションの世界ではよく聞きますが実際にそういった思考の人にあったことないですね。
ルーシー(ライトニングと自分の中で被っていた)もマリコもまあ報われない。ナナは唯一報われて個人的にはとても満足しました。ルーシーはコウタに謝ることができた・マリコもある意味幸せに死んだとも見れますが・・。もやもやするくらいがちょうどよいかもしれません。
フィクションであっても、振れた変態的思考を見れるのが楽しいのです。そういった意味と健気さで個人的にはナナが気に入りました。ナナはアクロトモフォビアの方には大人気でしょうね。狙ってますね。
木田さんに報告したところ、「極黒のブリュンヒルデ」がよさげなので次はそちらかな。サブカルを楽しんでおります。
Pierre Molinier
自分の欲望を余すことなく「Art」に昇華できる人は素晴らしいです。
ピエール・モリニエさん、「魔術的才能」とは言い得て妙であり、奇怪な人物。
ここまで社会的視点で狂っている人を聞いたことがありませんで。ですから面白いのだろうけれども。いい意味での嫌悪感を醸し出す作品を多く描いていらっしゃいます。
ピエール・モリニエ(Pierre Molinier、1900年-1976年)画家、写真家、人形作家。
ナルシスト。フェティシスト。女装狂。近親相姦と死姦愛好者。両性具有者。天使。拳銃自殺者。偉大なスキャンダリスト。「狂気の愛」を描き続け、アンドレ・ブルトンにその魔術的才能を激賞された。画布に精液を塗る、女装する、人形と自身の写真をコラージュする、といった倒錯的な作風で知られる、最後のシュルレアリスト。
略歴
1900年:4月13日金曜日、フランス・アジャンに生まれる。父親はペンキ職人、母親は裁縫師。
1928年:ボルドーで穏健な野獣派の画家としてデビューするが、性交中の男女を描いてスキャンダルを起こす。
1944年:父親が薬物中毒の果てに自殺。
1956年:アンドレ・ブルトンのキュレートによってパリで個展を開催するが、売春宿を営んでいることを告白したり二股のティルダを展示しようとしたりする露骨さが嫌われて疎遠となる。
1960年:妻に対する暴力と従兄弟に向けて銃を撃ったことから1ヶ月の禁固刑。
1975年:アギュロと両性具有をテーマとしたフォトセッションを敢行。
1976年:友人にあらかじめ宣言した上で、自室にて拳銃自殺。死体の周りには無数のポルノグラフィがばらまかれていた。
彼独自の奇怪な作品を次々と生み出し、背徳的なセックスに耽溺。自己フェラチオ用の器具を開発して写真に撮り、名刺がわりに配るなど、数知れぬ奇行を働いたことでも知られる。その他、黒のストッキングとハイヒールで女装した自身の肛門を踵に括り付けた自家製ディルドーで犯しながらそのアクロバティックな姿を写真に収めたり、早逝した妹の亡骸の上に絶望の涙とともにこらえきれず漏らした精液を滴らせたこともあるとされる。
という感じです。
グロテスク・エロティックな表現自体よりも、そういった表現をする精神や意図に興味を感じます。こういう人と一度対談してみたい。芸術家の頭の中はどうなっているのでしょうか。 歪んだ思考回路を持っているからこそ尖った作品が出来上がる or 優れた作品が作者の奇行性によって神格化される。 どちらの要因もあると思います。
芸術家の媚びない雰囲気が好きです。反社会的な事を表現してもその人や作品が広まってゆくというのは、やはりそれを支える国民が存在するからです。人々の潜在欲求や満たされてない思いを代弁している、もしくは潜在意識に気づかせるという啓蒙活動もしているような気がします。
振れているものはキレイです。
平和
日本は平和だと再確認しました。このニュース。
2週間前までいたトルコで自爆テロが起きたようです。36人が重軽傷を負った模様。さらにこのニュースが身近に感じられた理由は、この爆発があった場所から徒歩5分のホステルに泊まっていたからです。
生まれながらにしてずっとそこに住んでいるといっていたホステルの人は
「ここら辺はとっても安全で、深夜に歩いても一度たりとも何も起きたことがないよ」と言っていました。
そんな場所でもこうした被害を出す事象が起きてしまうのかと。
トルコ旅行中、話をすると「クルド人が・移民が・政府が」という話題がとても多く話しました。一般市民がそういった問題意識を持っているのは日本とは違うし、考えているという事において、状況が違うと感じました。
そういったシリアスな問題について意識関心が向かない環境で生活している、という事がどれほど幸せな状況であるのかを自覚している人はなかなかいないでしょうね。
あれですよ、マズローの欲求階層説だと「安全の欲求」を求めるレベルが世界にはあるってことです。地域によっては「生理的欲求」を満たすために生活している地域もあります。
頭の片隅にこういう事を入れておくと、幸せもひとしおに感じられ
日本で生活しているだけで幸せ、と精神衛生的に健康を保てます。
すごく欲しかった物から そうでもないモンまで クリック ドラッグ R & R
何だって手に入る さぁ 油断して渡ろう 慢心して進もう 文明の恩恵の上を
(Mr.children『終末のコンフィデンスソング』)
https://www.youtube.com/watch?v=HqXQXwgcf_U
平和な週末の雑記。
外連味
外連味(けれんみ) 「俗受けをねらったいやらしさ。はったり。ごまかし。」
この言葉をずっと探していました。
というのも、美術館に行くとたまに「これはやっつけだろう」と思うものに出会うことがあり、とても不快に感ずるのです。
何かを表現したくて、結果的にartと呼ばれるものが出来上がるというものこそ「art」だと思うのです。
そこには思考・思想が先行し、技術はそれを表現するための道具に過ぎません。
です外連味のある何か(artではない)は、artを凌辱しているよう感じます。
稀に、技術を振るい、奇をてらうことにより”artっぽいなにか”を作る人がいます。これを「art´」とします。
「art´」はからっぽなのです、入っているものは作者の浅ましさと薄っぺらい後付けの思考ではないでしょうか。
artを”作ってしまう”人たちの思想や苦悩など(言葉では表現できないなにか)の高密度な集合体であるart作品の中身と比較したら瞭然でしょう。
そういう「art'」を外連味アートなんて呼んではいかがでしょう。
さすればart淘汰のハードルはあがり、artの精度が上がるかもしれません。
ただ、おもしろいのがartとして認知されることが多いみたいです。わかりやすく・派手でimpressiveなもの。そういったものは食べやすく消化しやすいものです。ぱっと見て視覚的に「こりゃおもしろい」と思わせるものは人気です。
しかしですね、わかりやすいもの=いいものでもないかもしれません。
むしろ逆かもしれません。
軟らかいものを噛まずに食べ続けるとどうなるでしょう、噛む力が無くなり、硬いものが食べられなくなります。そうすると硬いものにしかない味・噛むという行為を失います。
さて、歯を退化させる"軟らかいもの"は果たして本当に”いいもの”でしょうか。
artに戻ります。
初見で理解不能なものは”硬いもの”です。それを何とかして噛み砕こうとすることが楽しかったり・楽しみであったりします。そうすると硬いものが引き起こす喜びというものはひとしおといえます。
art民度が上がれば「art'」なんて出てこれなくなりますね。
そんな世界は来ないかな。