Louvier morastery ルーヴィエ修道院
1642年に一人の神父が死に、修道女が激しいヒステリーに。彼女たちは、プティファー・ダゴン・グロンガードと呼ばれる悪魔に苦しめられていると訴えた。
その原因は同僚のマドレーヌ・バヴァンにあると言った。
教会はマドレーヌを”妖術使い”の容疑者としてマドレーヌを告発。告発内容は、悪魔との夜宴に参加・悪魔との取引に応じた契約書への署名、悪魔との性的交渉。マドレーヌは拷問にかけられ”自白”をした。
マドレーヌが修道院に入ったのは1626年。18の時に神父と関係を持ち、罪を悔いたのか噂を恐れたのか修道院へ入った。
そのフランチェスコ派修道院の草分けの司祭はピエール・ダヴィット。教義はアダム派(裸体主義)やキエティスト(静寂主義者)。修道院の生活は清貧そのものであったが、儀式はすべて裸体。信心深い修道女たちも裸体で踊らされたり、庭園を散歩させられたりした。
肉体関係は強要されることは無かったが、後任の司祭に代わってからエロティックな行為がエスカレートしていった。 そして復活祭の”告解”のおり、マドレーヌはピカールに関係を持たされた。以後、”告解”の度に。そして妊娠。
ピカールはほかの多くの修道女と関係を結び、院内は色欲地獄のありさまに。彼女たちを性の地獄へ追い込んだ媚薬は経血に浸したパンでつくられた。
悪魔の夜宴に参加して、人間のあぶり肉を食べ、性の饗宴を催した。毎晩”悪魔”がやってきて修道女は狂喜の淵に引きずり込まれる。
ピカールが死ぬまで15年間続き、マドレーヌは40歳で亡くなった。
性と拷問の地獄にあった一生であった。
コラン・ド・プランシー著 床鍋剛彦訳 『地獄の辞典』 1990 講談社
かわいそうなマドレーヌ。
神父と関係を持ってしまい、『浄化』を望んだはずなのに入ったところがアダム派というのは皮肉な話。
学んだこと
・宗教倫理は本能に打ち勝てない
・自分が所属するであろう集団は念入りに下調べすること
・女=崇高・使役 という相反する価値観が根付いていたこと
修道院で悪魔と性の饗宴なんてシュルレアリスム的で最高に素敵ではないでしょうか。
デペイズマン。
gameover 氏賀Y太
大企業
We first make our habits, and then our habits make us.
イギリスの詩人の言葉。
”はじめは、私たちが習慣を作り、それから習慣が私たちを作る。”
潜在的にその意識はあります。
しかし、思考と実行の間にものすごく大きな壁が存在することは確か。
こう、ブログという形でアウトプットを続けているのはいいことと思う一方で、
精度や頻度に不満がないわけではない。
でも、「書くことを続けている」事実はあるのだからペシミスティックにはならない。
気の利いた事をアウトプットできるためにはなんとなくではなくて、
戦闘的にインプットをしなくてはいけない気がします〇
就活も佳境。ふう。
人間改造論
"もともと人間の肉体に備わっている構造が失われたり、機能が低下した時に
それを回復させるための消極的改造。
人間の肉体に本来、備わっていない構造や機能を追加的に取り付ける積極的改造。
前者を倫理的に問題なしとする一方で、後者だけを倫理的に問題ありとする根拠は、それほど明確ではない。"
(町田宗鳳 『人間改造論』 新曜社 2007)
そうなんだよなあ。骨折してボルトを入れるのと二重瞼の整形って違う印象を与える。
-1→0 と 0→1 でなぜこんなにも世間の目は変わるのだろうか。
前者には
「ああ、かわいそうに。手術して痛そう。そういうこともあるよね」 と、同情。
後者には
「いや、整形はどうなのかな。親からもらったうんたらかんたら....」と嫉妬。
そもそも、人間の身体改造なんて太古の昔からやってきたじゃないかと言いたくなる。
民族が背中に動物の力を憑依させるためにキズを入れたり、一部分をピアッシング・拡張させたりする。西洋のコルセットも立派な人間改造といえるではないか。
これらの行為はその時代地域に合った美意識に基づいて行われてきたのに、
今、身体改変を行うと火花が飛んでくるのは嫉妬が原因だとしか考えられない。
言ってしまえば 美容整形していない人間はいないでしょう。
髪を切り、毛を抜き、爪を削り、液体を塗り、歯を磨き、体を洗い....
頭からつま先まで手を加えていないところは無いではないですか。
実は誰もが必死になって毎日、まるで自分に間違った体をあてがわれているように、
半ば強迫的に自らをキレイにしようと必死なのではないでしょうか。
体を美しく整える行為=整形 であるなら
ネイルをするのも、顔を開いて骨を削るのも同じですよね?
着ること。
論考とまではいかないけれど文章を書いてみたい。
一言でいえば、気分を操作することかと思いました。
のによって結構気分が変わります。洋服に思い入れがある人はその影響を受けるのは当然かと。。人によって好きなものは違いますが、その人がこだわりを持っているものはその人の気分に影響を与えるでしょうね。たまたまそれが洋服だったわけで。
洋服で気分を変えたり、いい気分をさらに快適に楽しんだり、あえて自分が不快な洋服を着てみたり、いろいろな着方をしています。
基本的にはヨウジを着ます。なんでかって、落ち着くから。黒いしでろっとしていて抜けた感じで空気感がフィーリングに合って心地がよいから。ゆらゆらしていたいので一番合っているのではないかーと。
シャンとしたいときはミヤケです。細身なのでシュッとした感覚になって背筋が伸びる気がして。シンプルできれいなんですよね。
Simplicity is the ultimate sophistication. というピカソの言葉を思い出します。「足すものがない」ではなく「削るところがない」状態が最も美しいともおっしゃられたようです。 あんな細密な絵でも全部必要なものだったんでしょうね.
ミニマルなデザインといえばジルサンダーだけどあんなにカチッとしていたら窒息死しそう
もやもやしたいときはギャルソンを。ギャルソンを着ると身体感覚に意識的になります。非対称だったり、ボコボコしていたりなんかいい意味で不快になれる洋服。あと、かわいいですよね、シルエットとか。
洋服としてはウィメンズのほうが好きなんだけど。「未成熟性」が強調されるような洋服(性的・美的・造形的)に。ギャルソンの服も好きな一方、「ギャルソンの洋服を選ぶ女」のほうに魅力を感じる。
周りに媚びず、確固たる自分の世界があって、「入ってこないで」とでも叫んでいるような強い女性。えてして化粧という虚構で現実を乗り越えてゆく力が感じられます(勝手に)
洋服好きな人に繊細な人が多いのは影響を受けやすいからではないかな。繊細だから洋服という日常的なものに大きな影響を受ける。そうすると関心が高まって工夫しだすのではないでしょうか。
意思を持ってを選ぶことは楽しい、主体的に関わればより楽しいので着たおして遊んでいます。
着る物で楽しくなれるのはラッキーかもしれません。
Matohu
Matohu という洋服のブランドが面白いと思いました。
読み方はまとう。
何が面白いかって、日本人が「日本の再解釈」をして洋服を作っている ことでして。
これって意外となかったですよね。あるシーズンで日本をテーマしにて服づくりを行ったりはしているのですけれど、一過性であり引用である場合が多いんですよ。
引用ってなにかというと某メゾンがガンダムのプリントTを作って、「ジャパーン」っていうもの。そのまま引いてくることです。
さらにいうなれば、「日本」「ジャポニズム」という文脈は西洋の目から見た表現であって、その背景には西洋の文化を高める素材としての「日本」という感覚でありました。
そこで matohu は日本人が日本を再解釈しようとしたのです。日本人が日本を再解釈するのであるから、西洋の目にはもう日本を再解釈する余地がないわけです。
実際に表参道のショップでいろいろ見せていただきました。
日本の文化・美意識をモダンに表現するmatohuの洋服は世界観がはっきりしていて優しく独特で軽やかな印象。
全然古臭くないんですよね。むしろ現代寄りの洋服で、柄なんかもはっきりしたものが多いんですが、その中でも日本というエッセンスがにじみ出ている気が。
自分はこの種の洋服は似合う人では無いので袖を通すことはないかなと思いましたが、夏の夜散歩する時に着たくなりそうな洋服でした。